混沌を生きる 



「この世は混沌(カオス)だ。」いう言葉があります。

仕事での人間関係や夫婦のすれ違いに悩む人。

常に価値を生み出すことを迫られ、生きる価値そのものを見失っている人。

大人だけではありません。

いじめや不登校、言葉にできない苦しみを感じているのは子どもたちの世界も同じです。

年間3万人の自殺者を生み出している私たちのこの国。
人の心は乱れ、悲惨な事件が当たり前のようにメディアを賑わしています。
その一方でテレビのスイッチを入れると、何の悩みもないかのように馬鹿騒ぎをよそおう人たち。

まさに混沌といっていいのかもしれません。

気持ちや思いが晴れずに悶々とすることは誰にもあることでしょう。
言葉にならない不安が頭の中にうごめいて、苦しい思いをすることもあるでしょう。

人は他と接するときに私たちはみな、多かれ少なかれストレスを感じるものです。
そして、思い通りに進まないときに不幸を感じ取ってしまいます。                           
社会と言う人の集まりの中で、限られた椅子を奪い合う、ゼロサムゲームに興じることがこの世で生きてことだと信じているのならばそれは仕方の無いことなのかもしれません。

自分の望むように進まないとき、私たちはその責任を誰かに求めてしまいます。
それは他人であったり、時として自分であったりします。

でも、その責任を追及していけばいくほど、うまくいかなくなったりするものです。

なぜなら、その責任をどれだけ追及しようとも、それは間違った物の見方に成り立つ理屈にしか過ぎないからです。



汚泥不染
  

このように私たちは混沌に見える世の中に生きています。
時には地獄のように感じることもあるでしょう。
時には極楽のように感じることもあるでしょう。


「もうこんな人生はいやだ!」

「どうして、誰も幸せになれないんだ!」

「何の為に生きてるのかわからない!」


そんな考えが浮かんでは、それを打ち消し、そしてまた・・・。そんなことを繰り返しながら私たちは生きているのかもしれません。

『蓮の五徳』という言葉があります。その中に 泥渇不染 という言葉があります。

泥の中にあって泥に染まることなく美しい花を咲かせる徳という意味です。

私たちを取り巻く環境は泥のように見えるかもしれません。
どこに向かって生きればいいのかわからない、光の差し込むことの無い真っ暗な泥の中にいるかに見えるかもしれません。
でも蓮の種は泥の中にあって、その本質としての美しさを失うことはありません。
泥の中だからこそ蓮は美しい蓮たりえるのです。私たちもおなじなのです。

苦しいと感じているのは、自分の中の異物〜自分ではない何か〜に気が付いているからです。
そこにとどまる限り、泥を泥としてでしか見ることができません。
そして、刹那的な欲の実現こそが幸せだと、それを追い求め手に入れることこそが人生の価値だと信じてしまうのです。

でも、私たちは種であり、美しい花たりえるのです。

本質として私たちは満たされているはずなのです。

それなのに、私たちは満たされていない、不幸なんだと苦しんでしまいます。

蓮が美しい蓮であるための本質こそが霊性なのです。
それは魂のありよう、魂の放つ光の状態とも表現できるのかもしれません。                  

本来、私たちは光り輝く魂を持っています。
しかしそれを自ら覆い隠し、その事すらすっかり忘れてしまい、泥の中にあることを嘆いているのです。

心を練り、正しいものを正しく見ることができること。
魂という私たちが持っている種を磨くこと。
私たちが本来持っている、光り輝くいのちを取り戻すこと。

本来の自分への帰還と成長。

それこそが霊性の向上なのです。
 





霊性とはvol.3〜「明珠在掌」に続く