明珠在掌 

霊性とそこから派生するプラーナの異常による心身の異常。
知る知らないにかかわらず、誰しもが苦しみから逃れるためにもがいてきたはずです。

あらゆることを試してきた。それでもスッキリしない。苦しい気持ちから逃れることができない。
一生懸命頑張ってきたのに楽になることができない。
こんなにつらいことはありません。
では、楽になれない理由はどこにあるのでしょうか?

頑張っていないからでしょうか?

いいえ違います。

頑張り方を、頑張る方向を知らないだけなのです。

今立つ位置によって同じ世の中に生き、同じ物事を見たとしてもその見え方や感じ方はまったく違って見えます。
自然と欲するもの、湧き出る意識、善悪や幸せについての定義など、あらゆるすべてのものがまったく異なるものになるのです。
その人が望む位置にあるならそれでいいのです。
何を意識しようが、何を欲しようがそれでいいのです。


そして、そのためには自立と自律が必要です。


「わかっているけどやめられない。」

「わかっているはずなのにできない。」 


それは頭の理解にとどまっているからなのです。
なにごとも真に理解する為には心の理解が必要なのです。
理解することなくして攻略することも、自分のものにすることもできません
苦しみも同じです。
苦しみの本質を理解するには、心の理解力が必要なのです。

頭の理解力は勉強すれば高めることができます。
では、心の理解力を高めるにはどうすればいいのでしょうか?

それは霊性を高めることが必要です。
霊性の成長なくして心の理解はありえないのです。

霊性。

その先には知識だけでは到達できない世界があります。

霊性とは魂のありよう、その品格や状態の様を表すとご説明しました。
心の理解を高める為には、右へ左へと気ままに揺れ動く心のハンドルをまずは自らの手に取り戻さなくてはいけません。
ハンドルを自分できちんと握らないと運転はできないものです。
ましてや目的地に無事たどり着くことなどありえません。

その為にまずは霊性を覆い隠しているものを見出しそれを減らしていくことが必要です。

その為には、自分を見出す作業が必要です。
心を練る=魂を磨き見出さなければならないのです。


私たちは自分の事をわかっているようで、実はわかっていません。
時には自分の価値を他人に投影して、第三者に自分の価値を委ねてしまったりしています。
私がそうだったからよくわかります。

「誰かが認めてくれる」ということに頼りきり、そこに自分の価値を見ようとしているのです。

自分ではない自分。
それを“自分”だと信じこんでしまっているから迷い苦しむのです。

「私」だと信じ込んでいる『間違った感情・意識』が、“本当の自分”を覆い隠してしまいます。
それだけでなく『間違った意識・感情』こそが“本当の自分自身”だと信じきってしまうのです。
そのことを知り、その間違いを見出し修正していくことを続け、その先に「良きもの」である本当の自分を見出すこと。

明珠在掌(みょうじゅたなごころにあり)

大切なものは外にあるのではなく、身近なところにあるものなのです。



    古インドのヨーガ・パーシャなどでは心の働きとして、これを“チッタ”と呼んでいます。
    “チッタ”は「私という意識」であり、過去の記憶や経験・感情が情報として刷り込まれています。
    苦しみや生き苦しさを感じているのはこの“チッタ”なのです。
    しかし、チッタ(心)と本当の自分(プルシャ)との区別がつかないまま放置していくと、
    あたかもチッタ(心)こそが自分自身だと信じ込んでしまいます。
    挙句、その区別がつかなくなるどころか両者が一体化してしまうのです。  

    チッタ(心)が苦しみを感じているだけなのに、プルシャ(本当の自分)が苦しんでいると感じてしまうのです。
    チッタにより本当の自分が侵食され、一体化してしまうこと。
    本当の自分を見出せず、チッタに操られてしまう状態こそ『苦』なのです。
   
    本来ヨーガという言葉は“
(くびき) ”という意味があります。
    牛車と牛に繋ぐ金具のことです。
    ヨーガは単なるストレッチでも単なる身体的な操法でもありません。
    そこには牛というチッタ(心)をプルシャ(自分自身)で制御するための行であるという意味が込められているのです。



この、自分ではないものを自分だと勘違いしてしまって、“本当の自分”という種を見出せないでいる状態。

般若心経ではこれを『罫礙』と呼んでいます。

 心無罫礙故 無有恐怖遠離一切顛倒夢想・・・
 心に罫礙が無いからこそ、一切の恐怖や乱れた感情や間違った価値観から抜け出すことができる・・・。

罫礙は霊性を下げる障りのひとつであり、多くの苦しみの原因になるものです。。


霊性を下げる要因は誰だっててんこ盛りにあります。
ひとつひとつ、本人の霊性を下げている要因を見つめていきます。

そして、その要因を徐々に取り除き、昇華していくことで本来あるべき姿へと導いていくのです。



その他にも、影響を与える障りについてがあります。

これについては別記しますが、霊性を高めると同時に“守る”という意識も大切なことなのです。

登るのは大変ですが、落ちるのは一瞬です。
ご注意なのです。



無明を生きる
  

私たちは、「自分自身のことを知っている」と思い込んでいます。
私たちは『私』という感情や意識を通して自分自身を理解します。
その感情や意識の動きを喜怒哀楽として感じながら、それを自分自身だと信じています。


私は明るい人だ。
私は控えめな人だ。
私は引っ込み思案だ。
私は・・・・。




このようにして『私』を私として認識しています。それは私たちの経験をもとにはしているのです。


一度経験した苦しみや恐怖にとらわれると二度とその苦しみを味わいたくない為にその原因にたいして怒りや恐れなどの拒絶反応を起こしているのです。
苦しみの経験から逃れる為に拒絶という反応を心に刷り込んでいくのです。
“快”にも同じようなことが言えます。一度経験した“快”を手放したくない、あるいは再び手に入れたいがためにその元となった何かに執着してしまうのです。


 例え話ですが・・・。


 小学生時代にずっといじめられていた少年が中学生になりました。

 クラスメイトは知らない人ばかりになります。

 これを機にいじめから逃れたいと彼は思っています。

 彼はふとした失敗をしました。

 小学校時代では、それを笑われることが辛くてなりませんでしたが、

 新しいクラスメート達も彼を笑いました。

 でも、初対面のクラスメートに笑われることが、彼の望んでいた「人気者」に繋がることに気が付きました。

 そして彼は、意図して笑われる存在になることが人気者になることに通じるんだと気が付きました。

 それに喜びを感じ「面白くて明るい人」という人気者の立場を手に入れました。


いじめから抜け出せたという意味では良かったのかもしれません。
彼は「道化に徹すること」が自分らしさだと自らに刷り込んだのです。人気者になるという快は彼にとって強烈なものでした。
彼は明るく面白い人だ。という評価を受け入れ、自分自身を「面白い人」と定義することを受け入れたのです。



上記はひとつのたとえ話ですが、本当の彼はどこにいってしまったのでしょう?
本当の彼には価値がなかったのでしょうか?道化を演じ人気者で生きていくことが間違っているのではありません。
それを「私」だと勘違いして、いじめられるという「恐怖から逃れるためだけの人生」にしてしまう事が間違っているのです。
道化を演じることも人気者になって嬉しいということも生きてきた(もしかしたらそれ以前の)経験からくる価値感や心の動きに過ぎないのです。



しかし、彼がそれを「本当の自分自身」だとするならば『本当の私』ではないものを「私自身」だと間違った見方をしてしまうことになります。
道化に徹しているのに認められない、努めて面白い人でいようとしているのに愛されない。その恐怖と恐れと常に背中合わせで生きていくことになるのです。


怒りや恐れ、悲しみなどの悪感情(今風に言うとバッドエナジー?
byスマイルプリキュア)は本来の自分には無いはずのものなのです。
記憶と経験に焼き付けられた印象や価値観が生み出すものであり、それは本当の自分ではないのです。
それは、過去の価値観に支配され続け、人生を差し出してしまっているといってもいいでしょう。


明るくなければならない。

褒められなければならない。

男らしく、女らしくならなければいけない。

優れてなければならない。


すべて、偽りの(〜でなければならないという)自分に操られてしまっているのです。
正しいものを正しいと認知できず、間違っているものを正しいと認識してしまうこと。

これを「無明」といいます。




この「無明」に苦しむ人のなんと多いことか。
命の連鎖の中で深く刻み込まれた記憶と、その原因である経験からくるに過ぎない単なる“感情”を「私自身」だと確信してしまうこと。

そして、その「私自身」をコントロールできないばかりか、逆に支配されてしまうこと。これこそが無明です。



明かりが無く真っ暗闇の中で迷ってしまう状態。

間違ったものを拠り所にし、「本当の自分」と「演じさせられている自分」との乖離に苦しむのです。
意識と霊性は相互に大きな影響を与えあいます。                          




意識は冷静からにじみ出るものであると同時に、時に霊性の輝きを覆い隠します。それは理性で制御できるものではありません。

「無明」を知ること。「知らない」ということを「知る」こと。

そして灯火を見出すこと。                 

つまり、自分を冷静に見つめることことが大切な第一歩なのです。       



霊性を向上させ、輝きを取り戻したいという人は道を求め、霊性の向上を目指します。
引き続き、霊性向上の道についてご紹介したいと思います。
霊性の向上を志す方の参考になれば幸いです。
 





霊性への道vol.1〜「霊性向上の道」に続く





               



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