アストラルランク 

1,000~10,000をアストラルランクと呼びます。
いわゆる一般的に市井を生きる人の大半がこのアストラルランク前半に位置します。
欲望を理性で制御している段階です。

物質的な欲望や肉体的な欲望を理性でコントロールし、他人には思いやりをもって接することができます。
しかし、いったん欲望の火がついてしまうと時にコントロールができなくなって感情に飲まれてしまうこともあります。
理性によるコントロールゆえに属する環境や社会通念といった周囲の影響に翻弄されてしまいがちでもあります。
理性とは普遍的なものではないからです。

また、アストラルランクとはいってもその幅は広く、アストラル前半と後半では天と地ほどの差があります。
2,000くらいまでの低いレベルでは、感情の衝動を抑えることができません。

自己中心的な解釈や理屈による理性が働くために、策を弄したり力を利用して自分の正しさを相手に押し付けようともします。
つまり、常に自分を、自分の価値観を守ろうとするがために、それを周囲に押し付けようとしたり批判的になったりします。
また、批判的になることもできずにひたすらに自分を否定することもあります。
両者は真逆に見えますが、共に「自分が正しいという証明」を欲しているという意味では同じです。
自分の正しさに執着しているといっていいでしょう。

幼児虐待や体罰、性的虐待などはエーテルの範疇ですが、時に“しつけ”と称して自分の望むように子どもを誘導することもあります。
「優しい暴力」と呼ぶべきその誘導は、子ども(他者)に対しての巧妙な支配なのです。

このようにアストラル前半では一見すると“普通の人”が行っている“普通の行為”に見えることですが、その実態は理性によってかろうじて欲望の激しい渦を押さえ込んでいるという状態です。
それだけに真に心が平穏になることはありません。
常に状況によって翻弄され、虚しい“条件付の幸せ”を追い求めるために心が満たされることも少ないのです。

一般的には2,000から4,000の人が多いように思います。
平凡で日常を生きる普通の人です。

しかし、理性による感情の制御には限界があります。所属する環境や人間関係に翻弄され、己の価値を見出せない「無明」にあることを知らないために感情は大きく揺れ動きます。

自分の価値を第三者に投影することで自分を確認しようとするため、知らずのうちに他者に依存します。
地位や名誉、収入や夫婦や親子関係など自分の価値を確認できるものを求めることに人生の大半を費やしてしまい、
物質的な要素や依存的な人間関係を追い求めます。
また、「愛」のなんたるかを知らないために、親子関係や友人関係、夫婦関係にも本当の喜びを見出せないものです。
セックスレスの夫婦や、逆に性に溺れる人、逆に性を忌避する人など挙げればキリがありません。
また、概して条件付の幸せしか知らないために苦しみから逃れることが目的の日々を送る人も多いように思います。

5,000を超えてくると苦しみを自分の糧として認識することができるようになります。それだけ苦しみを苦しみと感じなくなります。
心身の不調などの苦しみを通じ学びを得て、人生そのものを修行と捉えることができるのです。
感情に翻弄されたり、自暴自棄になることも滅多にありません。
普通の生活では到達することのできないレベルでもあります。
いわゆる人格者と称えられるような方で5,000程度ではないでしょうか。

お寺などで数年にわたって格式ある修行を積んだ方で8,000くらいです。そこから先は本人の努力と師匠の力量にかかってきます。




メンタルランク
  

アストラルランクを抜けるとメンタルランクです。
10,000から100,000がこのランクになります。

アストラルの欲望やそこからくる感情の乱れという呪縛から抜け出し、智慧を持って己を律することのできるレベルです。
智慧とは、正しいものを正しいと見ることができるということです。

見返りを求めず、功名心や地位、財産などへの執着や利己心や猜疑心、嫉妬、憎悪や色欲といった欲情を制御できます。
愛の何たるかを求め、他者と慈愛の精神で接することができます。

このレベルになると霊性的な自立と自律を確立しているといえます。

己の器を知りつつ自らを貶めることもありません。他者の価値を尊重し穏やかでこころを安定させることができます。

自然との一体感を常に感じ、それを通して本当の信仰を求め、日常の苦しみを他責に帰することなく己の成長につなげることができます。

このレベルから、風貌や言動といった見せ掛けでは表現できない風格が宿り始めます。

「足るを知り」常に心が満たされた状態だといえるでしょう。



  少小抛筆硯  少小筆硯(ひっけん)を抛(なげう)ち
  窃慕出世人  窃(ひそ)かに出世(しゅっせい)の人を慕(した)ふ
  一瓶与一鉢  一瓶と一鉢と
  游方凡幾春  游方すること凡そ幾春(いくはる)
  帰来絶巘下  絶巘(ぜっけん)の下(もと)に帰来し
  靜卜草堂貧  静かに卜す草堂の貧
  聽鳥充絃歌  鳥を聴いて絃歌に充(あ)て
  瞻雲爲此隣  雲を瞻て此隣(ひりん)と為す
  岸下有淸泉  岸下に清泉有り
  可以濯衣巾  以て衣巾を濯(あら)う可し
  嶺上有松柏  嶺上に松柏有り
  可以給柴薪  以て柴薪(さいしん)を給す可し
  優游復優游  優游復優游(ゆうゆう また ゆうゆう)
  薄言永今晨  薄(いささ)か言(ここ)に今晨(こんしん)を永くせん

  若いころ学問や世情をなげうち、ひそかに出家の人を慕っていた。
  僧となり酒の一瓶(いちびょう)と米の一鉢(いっぱつ)を携え、
  何年、自分には縁のない他郷を彷徨いめぐったことか。
  故郷の険しい峰のもとに帰ってきて、
  草堂で送る貧しい毎日を静かに送っている。
  何もない無一文だけれども
  静かに四季の移ろいを感じ
  鳥の声は琴の音や子どもの歌のように聞こえる
  雲をみればすぐ手が届く、それは親しい隣人のようだ。
  寂しいなんてことなんてなにもない。
  見下ろせば川が流れている。
  そこで衣服を洗うことだってできる。
  見上げれば山の上に松林。
  ご飯を炊く薪の心配もいらないんだ。
  なんて素晴らしい。
  この心境、この喜びは『優游』としか表現できない。
  まさに“優游 復 優游”なのである。
  なんにも急ぐことなんかない。
  静かに、ゆったり、落着いて「今」「ここに」生きている喜びを大事にしよう。
  この清貧、この喜び、このゆったりとのんびりした生活をいつまでも続けたいものだ。




私の大好きな良寛さんの詩です。

優游 復 優游(ゆうゆう また ゆうゆう)
足るを知り、金銭や物質的な執着を捨て、清貧を愛し、今を生きることができる。
それがこのメンタルランクの先にある霊性の境地です。
生かされていることを知り、大自然との一体感を常に実存として感じることができます。
少欲知足。つまり足るを知ることができ、本来無一物に生きることで常に満たされた幸福感に満たされています。
様々な欲の呪縛から解放され、自立と自律をもって自分の人生を歩くことができるようになるのもこのランクからです。

またメンタルランクの半ば、50,000を超えた位から他者のネガティブな感情やエネルギーの影響を受けにくくなります。
それはつまり、他者に本当の意味で「与える」ことが可能になるということに他なりません。
言ってみれば、子供がやっと大人になるように正しく物事を見つめる眼が宿りだす時期だといえるでしょう。

世の中にはもっともらしい言葉で自らを聖人かのように思わせる人もいます。

しかし、このメンタルランクには知識や理屈では到達することができません。
苦しみさえも、自らの成長の為に必要な与えられた糧として喜びをもって迎えることができるのです。
その為には学習による経験ではなく、実践する必要が、知識ではなく智慧が必要なのです。
苦しみや執着こそ自らを成長させる必要な課題とすることで小さな悟りの積み重ねの上に智慧を得ることが出来ます。

つまり日常の苦しみこそがすべて行足りえるのです。

これは『行としての日常』を生き抜いた者だけが辿りつける境地なのです。








霊性への道vol.3~「ブッディーランク」に続く

               



日本ゴールドディスク大賞