同行二人

霊性の向上を志したならば、まずは何をすればいいのでしょう?

霊性の向上とプラーナを学ぼうとするならば、師の存在が不可欠です。
独習ではダメなのかというわけではありません。

しかし、独習では必ずといっていいほど壁にぶつかります。
何の目印も無い道なき道をまっすぐに足を踏み外すことなく進むことは困難を極めます。

時として道を踏み外したり、気が付かないうちに間違ったものを正しいと勘違いしてしまうこともあります。
失敗して間違うことも時には大切な学びがあります。
でも、暗闇の中で道を誤まったときに正しい道を示す灯がなくては進路を変更することも引き返すこともできません。

目指すべき道を示し、道を踏み外さない為にも導師の存在は不可欠なのです。

また、間違った先生を師に持ってしまったためにかえって道を踏み外してしまうこともあります。
より高い境地を目指すのであればそれに見合った導師が必要なのです。

同行二人という言葉があります。

皆さんもお遍路さんの傘などに書かれているのを見られたこともあるかもしれませんね。

  
   お遍路さんが札所を回っている間は一人ではありませんよ。

   常にお大師様(弘法大師)が一緒に歩いてくださっていますよ。と言う意味です。


霊性向上の道も同じです。

歩んできた道はそれぞれ違います。

出発点も皆それぞれ違うことでしょう。しかし、目指す頂上は同じです。

例え一人で歩んでいるように見えても、霊性向上の道では常に師と「同行二人」なのです。






このように霊性向上の道を共に歩んでくれる師の存在は何よりも重要です。
しかし、正しい道を知りたいと願っているのに間違った先生についてしまう事で大変な遠回りをすることがあります。
下手をするとかえって真理から離れていってしまうことになります。これは本当に悲劇です。
そうならない為にも、ここでは師を選ぶ重要性と注意点を挙げたいと思います。参考にしてください。



 



  

もちろん、誰に習ってもいいというわけでありません。師事する先生の霊性に、生徒さんはダイレクトに影響を受けるからです。
低い霊性の先生に師事すると、“快”は多いかもしれませんが、結局は魂を傷つけてしまうことになります。
師を選ぶ際には見極める目と縁が必要なのです。

先生につくことで最も重要なことは先生と同じ方向を向くということです。
先生につけば、おのずと霊性は引き上げられます。それだけで楽になるという人もいるでしょう。
しかし、霊性を向上させるという意識、成長したいという意識が先生と共に無ければ、それも一時的なものとなってしまいます。

好き好んで悪事を働く人はいません。わざと道を踏み外すような人もいません。
誰しもが知らないうちに道を外れてしまい、気付かないまま誤った道を進んでしまうのです。
だからこそ、時には諌められたり、その方向修正を受けることがあります。

時には黙って見守られるだけの事もあるでしょう。それでも常に私たちが誤まった道に進まぬよう、師は暖かく見守っているものです。
その愛を感じることができるかどうか。これも道を求める者に必要な力なのです。

師に共に歩き、師と同じようにどこまでも高みを目指し、慢心することなく、批判的になることもなく教えを請える。そんな師との出会いをお祈りしています。

また、師との学びの場は学校ではありません。それは知識で教えられるものではないのです。
教えてくれといって、「はいどうぞ。」と教えられる世界ではないのです。

どこぞのブラック企業のように怒鳴られたり、なにかを強要されるようなことは決してありません.
かといって手取り足取りなどといったことはありません。サービス精神なんかはゼロといっていいでしょう。
その意味で非常に厳しい世界です。
もちろん「一名さまいらっしゃーい♪」なんてお客様扱いもありません。金銭のつながりではない、互いの敬愛の精神による深いつながりがそこにあります。

簡単に教えてもらえることではない。
だからこそ“教えを請う”ことのありがたさがあるのです。

だからこそ、最初から奥義や事の本質を教えてくれたりすることは絶対にありません。
「こんなことをして意味があるの?」といった事を数年も続けることもあります。
いつまでも同じことの繰り返しだと嘆くこともあったりします。
しかし、何年も師に隋するうちに知らずのうちに風格が身についてきます。

これは武道の「型」と同じなのです。
どのような“道”も「型」を重んじます。
理屈ではなく一見意味の無いように見えることを淡々と繰り返すことで、また師と共にあることで求道者の霊性が引き上げられます。
そして、いつしか得がたい空気・風格が宿ります。この風格こそ、受け入れる器が整った、準備ができたという証なのです。。
それなりの風格を身につけ、心の「型」が整ってこそ初めて理解できることがあります。
その時をを師は黙って待っているのです。

また、師は一見すると飄々とした体に見えることがあります。

「教えてやるぞ」的な、いかにもな作務衣なんかをまとったせんせーや、「おいらはすごいんだ!」的素晴らしい経歴だったり、おいしそうな美辞麗句や実績を並べ奉っているせんせーはたくさんいらっしゃるかもしれません。
でも、高い霊性を有している方にはそのような人は私の経験上一人もいませんでした。残念ですけど。

自分をよく見せる必要がないからこそ、そんなことをする必要がないのです。
これは“謙虚”とはまた違った、形容しがたいものです。
同じように、師足りえる人は市井の中で清貧にひっそりといらっしゃるものなのかもしれません。 
また高圧的に「我に従え!」「〜しないと大変なことになる!」などと脅すこともありません。
従属や盲目的な服従を求めてくることなど絶対にないのです。

眼に映る姿に惑わされずに、高い霊性を、本物を見出せるかどうかは求道者しだいなのです。すべては縁と言うことですね。 

この世の中には、従わせることで己の立場を必死で守ろうとする自称先生がたくさんいます。
言葉を巧みに操り、アンビリーバボーな奇跡体験をこれでもかと体験させてくれたりもします。
(それこそ低霊性のなせる心霊的な業なのです。あまりに低俗な行為ですがそれに感動して引っかかちゃう方も多々いらっしゃいます。)
でも、よくよく見れば当の先生が低霊性の虜だったりする・・・・そんな話はよくある話です。

カルトの教祖さまなどをみてもわかるように、そんな自称先生に心酔したり翻弄される人が後を絶ちません。
先生は生徒がいてはじめて先生です。でも、師はたとえ弟子がいなくとも師なのです。表現が難しいところですが。

また、師などといった大層な感覚ではなくても、お気軽にセミナーなんかに参加して「これはすごい!」と感動したのはいいけれども、実はお持ち帰りしていたり、思わぬ縁を結んでしまった挙句深く霊性を傷つけられていた・・・・そんな話もよくある事です。

本人の霊性が育っていない間は、低俗なものがやたらありがたく見えたりするものです。
それはそれで仕方のないことでもあり、本人にとって必要なことなのかもしれません。
でも、真摯に進むべき道を求めている方がそのような魔境に落ちる事は本当に切ないことです。

師たるものは生徒を支配しようとか、大きく見せたい、敬われたいなどとは考えないものなのです。
大切にされたいが為に門下生を力を見せ付けたり、なにかを強制したりという事もありえません。
「素晴らしい教え」に自ら酔うようなこともありません。教えを請う者は盲目的になってはいけないのです。
常に自分の心で感じ、心で理解しようとする姿勢を貫いてください。
美味しそうに見えるものほど毒があったりするものです。
師に何かを感じた者だけが教えを請い、その結果として礼を重んじればいいのです。

だからこそ、この世界は冷徹なまでにどこまでも「去るものは追わず」なのです。
師から離れてしまったとしても、引き上げられていた霊性がもとのレベルに戻るだけのことです。
求めない者は進まなくていいのです。
それもまたご縁であり、その人の力であり、必要な時なのです。
本人が求めないもの、気が付く事ができないものはどうしようもありません。
無理に与えてしまってはかえって遠回りすることになります。
それすら師は否定することなく、時が来るまで黙って見守っているものです。
冷たく感じることもあるかもしれません。
しかし、それもまた深い愛情なのです。
もし、あなたが本当に道を求めるのであれば、是非高い霊性と格式を有した師に師事していただきたいと思います。  
その為に必要なもの・・・それは「縁」ということになるのでしょう。

しかし、“縁”に気付き、“縁”を活かすのは結局のところその人の“力”なのです。
「自分を良く見せたい」と思わない人の崇高さを見抜のは想像以上に難しいことです。
そこには本人の“力”と"縁"が必要なのです。

自転車も、最初のひとこぎが一番大変です。
師との出会いこそが一番大変なことなのかもしれません。

霊性の向上に終わりはありません。
もしあなたが「縁」を繋ぐことができたなら、それを生かすも殺すもあなた次第です。
どうか素晴らしいご縁を結び、人生を意味あるものにしていただきたいと思います。









霊性への道vol.5〜「信仰」に続く


               



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